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また『花柄』/チーズ牛丼。

Photo_2  『花柄』の批評会では、ふだんお会いしない方々とお話しができて貴重だった。

 とくに、「玲瓏」「未来」の方々が多く、「コスモス」的な人々とは、やはり短歌観がかなり異なっているなあ、と思わせられることもあった。

 おそらくわが「コスモス」でもっとも頻繁に使われる批評用語は「わかる/わからない」であろう。

 短歌というものは、まず、言葉を読者にきちんと伝えているかどうかが大切、という姿勢である。

 当たり前のことのように思うけれど、これがなかなか難しい。そのあたりをどれくらい重要視するかが分かれ目になる感じがした。

 『花柄』で私がいいと思う歌を追加しておきたい。

・栞の紐がついてゐるのに伏せて置く本のページのやうに週末

・窓と窓枠のあそびがさむい音たてて列車は川にちかづく

・ここからは聞こえない音たてながら重機は動く雨の地上を

・言ひよどむことなどまるでないやうな日本語を聞く待たされたあと

・ヴィデオ映画終はつたあとに映るあのノイズみたいな休暇がほしい

 写真は、〈すき家〉の牛丼に「三種のチーズ」と乗せたもの。以前は「ハーブチーズ牛丼(?)」の一品だったが、多少の変更。

 チーズが溶けて、ちょっとしたドリアのようになる。それが肉片とご飯と絡む味がこの上なくいい。牛丼もあなどれない。

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コメント

 私の「わかる/わからない」というのは、言葉の面で解釈できるかどうかということがほとんどなのです。

 解釈ができさえすれば、そこからどれだけ難しくても、それは受け取り手も問題ですから、作者を責める必要はないのです。

 そのあたりの境界もそんなにくっきりしていないのですけれど。

 

投稿: おおまつ。 | 2008年10月28日 (火) 23時13分

青磁社の「牧水賞の歌人たちー永田和宏」に、2001年1月号の角川短歌に載った永田和宏さんと有馬朗人さんの対談が再録されています。必要があって読み返したら、永田発言にこんなのがありました。

「わからないものをどんなふうに受容できるか。これは短歌や俳句において試されている、読者の資質なんでしょうね」

改めて、がびーん・・・という感じ。

まあ、一般読者はわからないといって逃げることもできますが、選者って逃げられないから大変ですよね。sweat01

投稿: morijiri | 2008年10月27日 (月) 23時46分

「わかる」という時には「作品世界が読みとれる、イメージできる」というより、「共感できる」という意味で使われることが多いように思います。「共感できる」というのは大切なことだと思いますが、自己の体験に引きつけすぎて「表現」に目配りがきかない場合もありますね。「共感できないからわからない」というふうになってしまうと世界が狭くなるかなあ、などと思っています。

投稿: RIKA | 2008年10月27日 (月) 22時31分

だぁぁ!
鈴木竹志さんに「さん」を付けるのを忘れていました。
鈴木さんに、僕の非礼を深くお詫びします。

投稿: 森 | 2008年10月27日 (月) 21時15分

たしかに。
ちょうど高野公彦さんの(小池光論)評論を読んだんですが、敢えて「分からない」歌を挙げたり、きわめて論理的に、一首の深淵まで迫っていく印象を受けました。
小島ゆかりさん、鈴木竹志も、きっちりと、意味を捉えようとする批評でした。
でも、「意味」と「うた」については、しばしば考えてしまうことがあります。
とはいえ、僕も意味先行の歌を作っちゃうんですけどね。

投稿: 森 | 2008年10月27日 (月) 20時56分

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